2021年01月30日

焼入れ、焼戻し

焼入れ、焼戻し、完了。
しかし、本当に出来たかどうかは
まだ分からない。

とりあえず師匠が
焼入れしていたときの映像を心に浮かべ、
780度という温度を鉄の色で見極め
桶にためた水で冷却した。

鋼を硬くすることは出来た。
しかしこの焼入れが
本当にこの鋏にとって最適であったかは
これから分かるといったところだ。
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何十年たっても
刃こぼれせず、切れ味も変わらない
そんな刃になっていれば
成功である。

この調整だけは永遠に
終わらないものであろう。

短命か長命かはまだ分からないが
刃物として命はとりあえず宿った。
さて次は本研ぎである。

最後の動画で見ていただきたいのは
刃側を擦り合わせると
滑りも良く乾いた音がするのだが
峰側を擦り合わせると
滑りが悪く湿った音がすること。
これで、とりあえずの焼きが入ったことを
分かっていただければと思いまして。

posted by アサケン at 13:19| Comment(2) | 鍛冶修業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月16日

研ぎ

研ぎ作業。
水研ぎグラインダーを使って
生研ぎ(ナマトギ)と言われる
第一段階の研ぎ作業から入る。
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火造りにおける鍛造もそうだが
研ぎ作業においては特に
常に引き算の作業である。
削り過ぎてしまうと
もう2度と元に戻すことは出来ない。
鉄を足すことなんてできないのだ。
それが鍛冶作業の基本にある
難しい部分であろうと思う。
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徐々に鋏らしき形を形成していき
9割がた整ったところで細工をする。
目釘穴あけ(メクギアナアケ)
菱打ち(ヒシウチ)を行なえば
なんというか、
博多鋏の魂が入ったような気分になる。
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そして次回、焼き入れをすることで
鋏としての命が宿る
と言ったところであろうか。
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posted by アサケン at 15:29| Comment(0) | 鍛冶修業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月18日

鍛接(沸かしつけ)

我がコークス炉が
鍛接に必要な1000℃という炎に
なんとか到達してくれた。
おかげで、無事
地金(ヂガネ)に鋼(ハガネ)を貼り付ける
鍛接(沸かしつけ)の作業を
完了することができた。
201118-1.jpeg
難しさは、何といっても
鉄の色だけを見ての温度の見極めだ。
一瞬でも見逃すと
たちまち鋼が火の粉を吹いて解け出し
鈍刀(なまくら)と呼ばれる
使い物にならないものになってしまうのだ。
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ここをクリアできたということは
とても大きな一歩であり
自分への自信も少しは持つことができた。
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さて、次は研ぎの作業に入ることになる
実は鋏造りにおいては
研ぎの作業の方が大変とされているのだ…。
posted by アサケン at 15:43| Comment(0) | 鍛冶修業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月16日

鋼(ハガネ)を切り出す。
難しかったのは鋼にツメを形成する部分。
ズレないようにして鍛接ために
このツメを地金に食い込ませるのだ。
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博多鋏が日本刀と同じ構造だと
言われる所以がこの鍛接。
軟鉄の地金に、鋼鉄の鋼を貼り付けることで、
鋭さと粘り強さを合わせ持つ
刃物となるのだ。
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次回はいよいよ鍛接(沸かしつけ)に挑む。
火造りにおいて最も難しいとされる
前半戦の大きな山場だ。

我がコークス炉よ
鍛接に必要な1000℃という炎に
どうか到達しておくれ。

最近、レンタル工房の近所住民に
ブロアーの音がうるさいとの
苦情を言われてしまった。
そこでレンタル工房の管理人と話し合い
ブロアーを室内において消音をはかり
ホースでガレージのコークス炉まで風を送る
新システムへと改造した。
今のところ苦情はもう出ていない。


posted by アサケン at 14:19| Comment(0) | 鍛冶修業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月10日

地ぎり

まずは鋏造りにおける第一段階
“地ぎり”の工程を終えることができた。
本来であればこの工程は
鍛造機を用いて行うのだが。
今はそんなものを持ち合わせてない
しがない駆け出し妄想鍛冶職人の身。
全て手打ちにて完了する。
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しかし、これが正真正銘の
“手打ち”と言えるものであろうと
マイナスをプラスに考えている。
伝統工芸の世界では
出来る限り近代的機械を遠ざけることが
善であると思っている。
それにどんな意味があるのか…
師匠は…
「きりがなくなるんよ、どっかで止めんと」
と言っていた。

僕が今思うのは
機械は同じものを早く楽に作るためにあり
そういう機械で作られたものに
人は愛着や感動を感じないのではないか
ということ…。
まだまだ考察の途中で、説得力のない
答えにしかなってないだろう。
これから考え続けていきたい
テーマの一つである。
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posted by アサケン at 13:12| Comment(0) | 鍛冶修業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする